戦争を防ぐ国に

8月に誓う、「日本を『戦争ができる国』にしない」 | アゴラ 言論プラットフォーム (agora-web.jp)「田原総一朗 公式ブログ」2022年8月12日

戦争とはどういうものなのか、人が死ぬとはどういうことなのか。私はあの戦争を知る最後の世代として、体験を語り継がねばならない。そして、身体を張ってでも、日本を「戦争ができる国」にしてはならないと強く心に誓っている。

まだ、こういう平和ボケした夢想家が、詭弁・駄弁・・・いや、目の前の現実を見ずして、依然として洗脳口害をしていることが許せない。年だけ取った馬鹿だと言えばそれまでだが、内容自体が幼稚過ぎて、嘆かわしい。

こんな駄文でも、それに同意してしまう国民が大多数なのだろう思うと、無力感・脱力感が襲う。

適切な「軍備を持つ国」とは、「戦争が出来る国」ではなく、「戦争を防ぐ国」である。

憲法前文を読み解くと、「悪い日本さえ、戦争を起こさなければ、世界は平和なのだ」となる。これを自虐史観という。

戦後、日教組は、この自虐史観を、純真な子供達に植え付けていったが、普通の社会生活を経験すれば、それが如何に間違ったものであるか、いつの間にか理解出来た。

まして、今のロシア・ウクライナ戦争や、シナの言動を見れば、その自虐史観が如何に奇妙奇天烈な考えであるか、常識を持ったおおよその人間なら理解できる。

そんな世になっても、これほどの駄文を世に出す田原という男は、「世の中の常識という壁」を乗り越えずに生きてこられた。という、ある意味、奇異な存在なのだから、強く心に誓うのは自分だけにして欲しい。

今回の広島・長崎の市長の平和宣言も、似たようなものですな。でもまあ、これら首長の思想中立的発言は、常態化した究極の選挙モードだから、360度の忖度発言と思えば、「また、馬鹿言ってら~」と聞き流せる。

あの反戦平和の子供達の宣言なども、どうせ、反日教員や小役人が、以前からの挨拶を踏襲して書きなぐっただけの駄文なんだから。

明日までは、どうでも良いような反戦番組が特集される。「戦争の悲惨ささえ煽れば、戦争は無くなるのか?」。私は、昨年3月の議員の最終質問とした。

教育長は答弁の最後に、「そうは思わない」と、初めて反戦教育の危うさを認めて、同じ3月に辞職された。 今は、どうしておられるのだろうか。。