皇位継承の続き

>「貞常親王」より、約350年を経た「邦家親王:1802~1872」の御子孫が、今の旧11宮家なのです。

邦家親王

文化14年(1817年)に光格天皇の猶子となり親王宣下し、邦家と命名。同年元服し、上野太守、三品。天保6年(1835年)に鷹司政煕の娘景子と結婚。天保12年(1841年)に父貞敬親王が薨去したことで伏見宮を相続。

慶応3年(1867年)大政奉還のとき国事御用掛に任じられ、慶応4年(1868年)一品、明治5年(1872年)3月に家族とともに京都から東京に移住し、家督を貞愛親王に譲り、隠居した。同年8月5日に薨去。

極めて子沢山(17男15女の計32人の子供がいる)であり、中でも当時では極めて珍しく13人もの男子が成人したことで親王の子孫は大いに繁栄した。

今日旧皇族と言われる、戦後すぐに皇籍離脱した11の宮家、並びに戦前に臣籍降下した各華族家系の全てが邦家親王の男系子孫で占められる。また、令和時代に皇位継承権を持つ全員がまた邦家親王の(女系の)子孫である。

竹田宮家誕生の謎|高森明勅 公式ブログ (a-takamori.com)

明治維新政府は慶応4年(明治元年)閏(うるう)4月15日、(由緒ある世襲親王家だった)伏見宮家・有栖川(ありすがわ)宮家・閑院(かんいん)宮家以外の宮家は全て“一代限り”とする、太政官布告を発した

これによれば、例えば傍系の更に傍系に当たる北白川宮家の(非嫡出の)第1王子だった恒久王は当然、皇族の身分を離れねばならなかったはずだ(北白川宮家自体は〔嫡出の〕第3王子の成久〔なるひさ〕王が継いでいた)。ところが、そのまま皇族に留まり竹田宮家を創設した。これは何故か? 明治天皇の内親王の“嫁ぎ先”として、皇室に留まることが出来たという見方がある。【中略】

竹田宮家の場合、宮家を創設(明治39年)して僅か2年後には、明治天皇の第6皇女・昌子内親王を妃として迎えている

こうした経緯を顧みると、その子孫の中に、男系よりも女系を重く見て、明治天皇の末裔である事実を誇る人物が現れるのは、むしろ相応しいことのように思える。

だから、傍系の北白川宮家であった「竹田恒靖さん」が、明治陛下の玄孫なんですね。良く分かりました。 皇位継承問題が進展したら、また廿日市支部へお呼びしましょうか。お酒はあまり飲まれないし、スマホばかり気にされている結構シャイな方でしたよ。

竹田恒靖氏 作家。昭和50年(1975年)、旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫にあたる。

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