「自分が神」

ニーチェは知りませんが、この世界(弱小ゼネコン・零細建設業・地方議会・地方公共団体・庁舎)で泳ぎ回った者ですから「自意識だけ高い御仁」には嫌と言うほどお会いしています。(現在進行形 ^^)

でも、そういう御仁の共通項は、土俵で構えた時に滲み出る「弱さ」でしょう。独特の臭いと言っても良いと思います。

そういう方々はいつまでも、自分の思い通りの世の中で生きられませんから、最後には見苦しい程の「保身と自己弁護」に走ってしまう。 見たくないですよね。本心からそう思います。 「最後まで付け髭のチャップリンでいろよ~」

実際に出来る人は、一緒にやっていれば判ります。その凄さが。

楽しんでやってますから。しかも、結果を恐れていない。失敗も想定内なんでしょうね。私にはそんな度胸はありません。

ああ、こういう人になりたいな~と思って、未だになれない65才。 もうダメだろうな~ こりゃ~ ^^;;

「自分が神」” への3件のコメント

  1. 確かに日本にも,「虎の尾を借るキツネ」的な意味で,「自分が神」の人は沢山いますよね.そんなに文化差があるような話じゃないのかも知れません.

    実にナチュラルな思考として,北も南も,中共様々の後光がるから,彼らはあたかも神のように振る舞える・・・.ただし,もし仮にそうだとしても,彼らの威張りっこのレベルは,常軌を逸しているとは思いませんか.冗談みたいな話ですが,国の起源にしても,漢字の起源にしても,古代支那を大きく越えて,まさに「全て我こそが神なり」となる.

    でも私が嘆いているのは,その威張りぶりの「度合い」の問題では無いんです.あくまでも「質」の問題.虎の尾を借りたキツネが「自分を虎と思うがどころか,虎を越えた神と思っている」という度合いの行きすぎをいいたいのではなくって,

    「どうして,そもそもそんな勘違いが出来るのか?」

    について気になって仕方がない.

    で,面倒臭いので結論から言ってしまうと,結局彼らに決定的に掛けているのが,

    「客観性」 イコール 「他人の立場からも,ものごとを眺めてみる」

    という思考の手順なのではないかと思うのです.

    日本人は,放っておいても当たり前のように,他人の立場,考えを類推して,両者の落としどころを自然と探って言葉を口にして,行動する.敢えて極端に言うと,特に意識してそのような教育を受けていなくても,日本で生まれ育つと,多かれ少なかれ,それなりの「客観的視点」が思考の中に埋め込まれる.

    地震でパニックにならないのも,それが「全体として」最善であるからと,自然に考えられる.

    しかし,ここが違うのですね,彼らは.

  2. ところが,これが全く違うのですね,彼らは.

    昨年の韓国セウォル号沈没のさい,このような発言をした特亜人がいました(実話).

    「船の中で死んだ高校生はアホだ.『日本人みたいに』船長のいうことを聞くから,みすみす溺れ死んだ」

    というのです.ここで言う,「日本人みたいに」というのは,自己判断力もなく,ただただ目上の人,力ある人の意見を聞いたウスノロだ,という意味です.まあ,標準的な彼らの持つ日本人感ですね.

    そこで私は,「そんな風に,誰もが一度に非常口に殺到すると,将棋倒しになってむしろ逃げ遅れる人が増える.これを合成の誤謬という」と説明しました.が,相手はガンとして首を縦に振りません.

    「それは屁理屈だ.人が,他人がそのように考えているかなんて保障がない.というか,考えているはずがない」・・・.そして最後に,

    「まずは自分.最後まで自分.自分が助かるかどうかが,全てじゃないか!」

    怒鳴り声を上げて,会話を打ち切られました.

    私は,その言葉の裏にある恐ろしいまでの孤独感に,思わず背中が寒くなりました.

  3. 日本の虎の尾を借るキツネたちは,バックにある大会社の看板や,肩書きに対して,どこかぬくぬくとしたなれ合いの心情を持っていることでしょう.だから,その「現有の権力」以上の,自分で自分を守るしかない荒野にまで赴いて,改めて神のように振る舞う人はいない.

    あくまでも,「和の中の」なれ合いの中の権力に,溺れている.

    しかし,もしかしたら,朝鮮人はそうじゃないのかも知れません.本当に,周りはみな敵で,ごろつきばかりで,うそつきばかりの荒野の中に,一人ぽつんと生きていると「感じて」いるのかも知れません.

    だとすると,私の中では全てはつながります.

    犬に向かって重力の法則を説明する人がいないように,詩文の思想を理解する相手なんてそもそも存在しない,となれば,タダひたすら一方的に,自分の都合から,自分の考えを吐き出し続けるしかない.

    ただし,そんな理由で彼らに客観の精神がないのだとしたら,まさに,救いようがないくらいに薄ら寒い荒野ですね.彼らの生きる世界って.