「自分が神」

ニーチェは知りませんが、この世界(弱小ゼネコン・零細建設業・地方議会・地方公共団体・庁舎)で泳ぎ回った者ですから「自意識だけ高い御仁」には嫌と言うほどお会いしています。(現在進行形 ^^)

でも、そういう御仁の共通項は、土俵で構えた時に滲み出る「弱さ」でしょう。独特の臭いと言っても良いと思います。

そういう方々はいつまでも、自分の思い通りの世の中で生きられませんから、最後には見苦しい程の「保身と自己弁護」に走ってしまう。 見たくないですよね。本心からそう思います。 「最後まで付け髭のチャップリンでいろよ~」

実際に出来る人は、一緒にやっていれば判ります。その凄さが。

楽しんでやってますから。しかも、結果を恐れていない。失敗も想定内なんでしょうね。私にはそんな度胸はありません。

ああ、こういう人になりたいな~と思って、未だになれない65才。 もうダメだろうな~ こりゃ~ ^^;;

このような長期にわたる地震災害は、今までに聞いたことがありません。

本当にそうなのか? 古文書などの文献で調べたものが有りました。17世紀初め1619年、関が原が1600年ですから、徳川幕府2代将軍秀忠の時代になります。

熊本では、午前6時より大地震が始まり、約6時間にわたって大小の揺れが続き、熊本城は大部分崩壊。八代城や竹田の岡城なども甚大な被害があったようです。

この地震の範囲は、現在起こっている熊本地震と整合しますから、結構不気味です。

その後、熊本では1625年にもM5~6の地震があり、熊本城は再び崩落し、城の火災によって火薬庫が爆発して、甚大な被害となったと書いています。

この前後は、大きな地震が頻繁にあったようですが、特に1596年の「中央構造線」付近の大地震に注目しました。

1596年9月1日、伊予(松山)でM7の大地震があり、3日後の9月4日には豊後(別府)でM7~7.8の大地震と津波で死者708名。翌日9月5日には伏見(京都)でM7を超える大地震があり、600名以上が圧死。これは完全に中央構造線の連動地震と思われます。

古くは、1605年2月3日の慶長地震。南海トラフと房総沖が震源とされ、揺れが少なかったことから、津波による被害が多く出ており、死者は5,000~一万人と言われています。

次には、1707年10月28日の宝永地震。これは、南海・東南海・東海トラフの連動地震と言われ、M8.6の巨大なもので死者は2万人を超え、文献では広島にも大津波が押し寄せて大きな被害が出ています。その年の12月16日には富士山が噴火し、人的被害だけでなく、多くの作物にも被害が出て大飢饉となりました。

また、1854年には安政地震があり、12月23日に東南海トラフによる安政東海地震M7。翌12月24日には南海トラフによる安政南海地震(広島震度5)。二日後12月26日には別府愛媛沖の豊予海峡地震M7.4。

翌年1855年11月11日22:00には、南関東東の安政江戸地震があり、直下型地震M7.4(震源市川市辺り)といわれ、神田や築地でも震度6以上であったと言われています。

その1855年には、他にも大きな地震があり、3月18日の飛騨地震M6.8、4月9日の飛越地震が有名です。

広島は、芸予(広島県西部と愛媛県を示す)地震としても大きなものがあり、1649年3月17日にM7.0.1686年1月4日にはM7.2、1857年にはM7.3、1905年6月2日にはM7.6、1949年M6.2、1979年M6.0、15年前の2001年(H13年)はM6.7となっています。

ざっと書いただけでも、さすがに地震大国。ため息しかでませn。

国土面積は、世界の0.25%なのに、震度5を超える地震の1/5が日本で発生するわけですから、国・県・市と共に、個人個人が本気で対策を考えるしか生き延びる方法はありませんね。

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