ようやく、繋がりました~

しばらくブログをしなかったら、情けないことにパスワードを忘れてしまいました。

ようやくパスワードを変更して、久々に書き込みしています。

たかが市議会議員レベルで、忙しいのを理由にしてはいけませんが、自分なりに精一杯動いてるつもりでも、40代の頃と比べると、格段に行動力と瞬発力が落ちてますね。 仕方ないと言えばそれまでですが、良い言葉で言えば「慎重に行動している」という事なんでしょうか。

まあ、考えてみれば64歳ですから、当たり前と言えば当たり前。年相応なのだと思うしかありません。  逆に人を見る目と判断能力は増してきていると、自分なりに感じられますから、悪いことばかりじゃないですな。 最近は楽しみながら仕事しろと、不動さんに言われているような気がしています。

さて、

>長男から面白い質問を受けましたので、記述します。
1『平和の規定・概念て何?』
2『各国よって平和という言葉の意味合いがかわるのではないか?』・・とのご質問。

随分、難しいお題です。おなじみのWikipediaでは、「戦争や内戦で社会が乱れていない状態」と書かれていることはご存じのとおりです。国語辞典でも平和の反語は戦争となっていますが、果たしてその解釈は正しいのでしょうか?

今の日本は平和と言われていますが、終戦のどさくさで北方領土を取られ、武力を放棄させられた状態で、李承晩ラインを勝手に引かれて竹島を強奪され、未だに拉致被害者と判明している人々すら取り返せない。

あの小国ベトナムでさえ、横暴なシナの漁船に対して毅然とした態度が取れるのに、日本は平和憲法とやらで、貴重な赤サンゴを守る事も出来なかった。

日本を別にすれば、「国の平和とは、国益を犯されないための十分な装備と体制の上に成り立つもの」と考えられます。この概念は、おそらくシナでもアメリカでも同じだと思います。

でも、日本の憲法では、「他国の公正と信義を全面的に信頼した上で、自国民の安全と生存を確保する」とうたっていますから、「他国が日本の国益を犯すはずがない」事を前提としている訳です。

この時点で、既に今の憲法前文では、現在の国際情勢との矛盾を説明できません。

実際は、北朝鮮の拉致が判明した時点で、北朝鮮とは交戦状態であるという認識が必要でした。米国で同じことがあったら、瞬時に北朝鮮へ攻め込み、被害者を奪還すると同時に、北に米の傀儡政権を立てることでしょう。

小市民さんがおそらく言いたい処だろうと思います ^^;;

各国で、多少の平和の概念に違いはあるでしょうが、日本ほどの異常な違いは無いと考えます。

日本は未だに真の独立国とは言えず、米の植民地と言われてもおかしくない状態にあるわけですから。

マザーテレサが、「愛の反語は無関心」と言いました。 日本人の多くは、日本に無関心なほど平和ボケしているのでしょうね。

ようやく、繋がりました~” への7件のコメント

  1. ご無沙汰しております.

    ページの更新がなかった理由が分かって,ちょっと安心です.久しぶりの書き込みをさせていただきます.

    「平和とは何ぞや」 どこまで考えてみても尽きることのない,いわゆる「人にとって,本質的な疑問」の一つなんでしょうね.私も,ことあるごとに,その意味について相変わらず考えさせられています.

    そんな,平和談義についてちょっと一言.

    昔一時期流行って,最近さっぱりいわれなくなった日本人論の一つに,「日本語(というか,日本人のコミュニケーション)には,三人称がない」というものがありました.

    早い話が,日本人というものは,「同族性と,性善説のみを信じていても,十分安全に,幸せに生きられる」ということです.それは,日本という国が,平凡に生きる庶民にとっては,極めて恵まれた素晴らしい社会であることを示していると同時に,「他者に対する客観的な視点がない」という弱さの源泉にもなっている.

    黄色のプラスチックのチェーンを一本張っておくだけで,敷地内に誰一人入ってこなくなる.日本ではあ当たり前の光景です.が,世界の現実と照らし合わせてみると,日本には,社会の中に,極端に虐げられアナーキーになった階層が,極端に少ないことでたまたま成り立っている,奇跡的な状態なのです.

    そのような社会が成り立っている日本というものを,自画自賛するのも分からなくもない.でも,この,

    「私がルールを守るなら,みんなもルールを守るはず」
    「私が平和を望むように,みんなも平和を望んでいるはず」
    「私が幸せなら,みんなも幸せなはず」

    という思考パターンには,徹底的に「他者」が欠けている.このことを,機械的にであっても,(つまり,多くの善良な日本人の腑に落ちない,異質な感覚であったとしても),理解するというのが,私は,今の日本人にとって,国際社会の現実を理解するための,一つの大きな課題なんじゃないかと考えているのです.

    つづきます

  2. 「他者をも含めた平和」.早い話が,日本だけでなく,例えば,日本の周辺諸国の特亜諸国も,同時に満足できるような平和・・・,そう言う平和が,本当に成り立ちうるのか.
    「みんなで手を取り合って,そうすればよい」
    「彼らが困っているのなら,手を差し伸べればよい」
    「悪いことをしたなら,正直に謝ればよい」
    善良な日本人の多くが,簡単に答えようとする.しかし,そこには,絶望的なまでの,「無視,無関心」が横たわっている.「劣等の立場に捕らわれた,嫉妬に苦しむ心理地獄」の存在を,決定的に見落としているのです.
    マザーテレサのいう,「無関心」.平たく言えば,日本人は,かつてのフランス革命の時に,「御飯がなければお菓子を食べればよい」と曰ったマリーアントワネットのような存在なのです.我々本人に自覚はなくとも,周辺諸国から見たら,「その存在自体,耐え難き嫉妬心を抱かざるを得ない対象」なのです.少なくとも深層心理的には,そうなのです.従軍慰安婦や,南京大虐殺などというストーリーを執拗に繰り返し,永遠と思えるようなストーキングを繰り返す彼らの深層心理は,「本質的に恵まれてしまっている」日本人にとって,つまり私にとって,理解しがたいことなのです.が,理解しようとしない限り,それは「無関心」となる.平和に対する無関心,無理解ともなる.
    「平和に軍隊がなぜ必要か?」
    「危なっかしい原発を,なぜ使い続けなければならないのか?」
    全ては,そこに「他者がある」からです.自分達とは,どうやっても同化することのない,決定的に立場と価値観が異なった他者がある.それを無視したあらゆる平和論議は,どうしようもなく空しい空論にしかならない.しかし残念なことに,マスゴミなどで喧伝される平和論のほとんど全てが,これに尽きる.
    冷静に考えれば分かるはずなのです.どれだけ安全な日本といっても,窓には,ドアにはカギをかけるでしょう.警察という名の権力組織を,交番として,町の隅々まで配備しているでしょう.日本の「なか」に生きていたとしても,「異質な他者」の存在を全く無視して生きていけるわけじゃない.
    でも,徹底的に恵まれた日本人は,こうやって,「異質な他者にネガティブなアイコンをかぶせる」こと自体,なんとなく後ろめたいというか,「悪いことだ」と,お人好しに浸りきることが出来る.
    だから,現実的な議論に対して,「ヘイトスピーチだ」とレッテルを貼られると,とたんに元気が無くなる.声のトーンがガクンと落ちる.
    つづきます

  3. かつて,ラフカディオ・ハーンは,日本で憲兵にしょっ引かれる盗人と,それを取り囲む群衆のようすを,驚きを持ってエッセイにしています.「群衆の前で,盗人が,おっかさんから引きはがされていく.そして,それを見ていた群衆たちが,なんと,泣き叫ぶおっかさんと共に,みな,涙に暮れていた」という話です.ハーンは,この,日本人にとっては全く当たり前に理解できる光景を,最大限の驚きを持って,「英国人叔父文意は全く理解できないこと」として,レポートしているのです.

    日本人にとっては,他者といっても,それは,「あくまでも同質の価値観を持った存在」としてのみ存在している.だから,「同僚より,先輩よりも先に帰宅できない」という心理的拘束を勝手に感じて,会社の残業(サビ残)体質一つ改善できない.いかにも日本らしい,喜劇的なエピソードです.

    ハーンにとって,しょっ引かれていく盗人は,「決定的な悪人」だったのでしょうか?

    そう考えることで,私達は,私がここで主張する「異質な他者」を理解しなければならに,そのように訓練せねばならないのでしょうか? 善悪を極端なまでに白黒と分けて,例えば国際関係ならば,日本と対立する特亜諸国を,徹底的な他者として,そして日本にあれこれ仕掛けてくる他者ゆえに,上記の罪人と同様に「悪」として,レッテル貼りしなければならないのでしょうか?

    私はそうは思いません.ハーンは,おそらく,我々日本人には分からない距離感を持って,盗人を他者として認識したのです.決定的な悪人ではないが,同格の共感を持って,苦しみを分かち合う対象でもない・・・,鳥飼したのでしょう.そして,「ハーンが取った,盗人との距離感」こそが,我々日本人の知らない,「他者の認識方法」なのかも知れません.

    私は最近,安倍政権の本気をひしひしと感じています.「集団的自衛権が是か非か」とか,「○○新聞は潰れろ」程度の戯言がヘイトスピーチかどうかなどの,ことば遊びのレベルではありません.

    日本の平和のために,「他者」と戦うことも辞さない.そういうレベルでの,決意です.

    卑近な例として,先日,私の職場の大学にそれまで当たり前にあった過激派の看板に,「近日撤去します」の張り紙と友に,ブルーシートが掛けられました.マスゴミで伝え聞いた情報では,下村文部科学大臣が,国公立大学に対して「日の丸・君が代」の徹底をお願いするとだけありましたが,そんな話は序の口です.明らかに,戦後のタブーに手を掛けている.
    私はこの事象を,喜ばしく思っています.無論,思想弾圧ではありません.「地下活動」という異質な人間による異質な活動を,大学を拠点に許すべきではないと考えているからです.学問の自由,思想信条の自由をいうのなら,堂々と,表向きの,地上活動として行うべきだからです.

    「民主的」というのは,決して,あらゆる人に,「同格の発言権がある」ということではない.普通選挙制度として,十八歳以上の全ての成人に選挙権があるといっても,だからといって,全ての人に,国家の意思決定に対して,同格の権限が付与されたわけではない.他者を,「同質,同格の他人」としてしか認識できない,多くの善良な,そして幸いにも恵まれた日本人には,ちょっとトリッキーな問答ですが,隣のおばさんに,我が家の味噌汁の味付けを決める権限がないのと同様に,よくよく考えれば当たり前のことです.

    「他者」を意識するということは,そこに,「差別」とは別次元の「区別」を認識することです.

    残念ながら,我彼の平和は同じではない.どこまでも善良な日本人が,どこまでも攻撃性をそぎ落とした理想的な平和を追求したとして,それは,海外の他者から見たら,彼らの平和を脅かす存在にもなりうるのです.日本が安定して存在すること「自体」が,周辺諸国にとっては,目障りなのだとしたら,どうでしょうか.

    それを強さというのなら,我々は,母親の目前でしょっ引かれていく罪人に,涙を「流さなかった」ハーンの強さを,持たなければならないのでしょう.

    おわりです

  4. 寝るケーノさん、こんさん、お久しぶりです。

    私は長男の質問には以下のように答えました。
    『現在の平和概念は各国によって違うのは当たり前。価値観の相違があるし、国によっては国の安定のためには戦う!と憲法に明記している国もあるから。日本とはこうした点が違う。現在の日本の平和の概念は言葉だけでは説明できるかもしれないが、具体的には無理。平和とは生存権をどこの位置に持ってくるかで、変わるから。現在の日本の平和の概念は、基本的には マスコミと学校の先生が決めた概念の受け継ぎ。今は国会議員が明白に規定を決めようとしている』・・・。

  5. マスコミは平和の概念を反戦の立場からしか伝えてこなかった。敗戦国としてはその価値観もわかるし、仕方のないことかもしれない。

    でもその価値観は世界ではどうなのよ?仮に 沖縄2紙が民事裁判で、日本の平和をゆがめている、あるいは、うそ八百を並べている、と裁判おこされたらどうなるのだろうか?

    仮に敗訴しても報道の自由を守れ、とかに歪曲し、政党制をまもるのだろうけど。

    記者クラブや報道の自由をかかげて、慰安婦報道のように責任を明確にしないマスコミは、本当につぶれるべきだと思うのが、普通では?

    普通が歪曲されて攻撃を受ける日本。本当の平和なのかな?マスコミにとっては平和でしょうけど!

  6. 別件ですが・・・

    世界遺産登録に対する,韓国の妨害は,もう,精神病レベルですね.

    しかし・・・「forced to work」か.正直,ヤバイですね.第二の河野談話になりかねません.

    気が重いです・・・

  7. 上海株,ダイジョウブですかねぇ.

    個人的には,かなりヤバイと思いますが.