頑張りましょう

>ということは,杉田さんの「生産性」の発言に差別を感じるのだとしたら,「英語圏の人は女性が子供を産むこと自体を機械的にとらえ,差別している・・・」,という理屈になります.

こなさん、お疲れ様です。 申し訳ありません。 日本語しか理解できない私にとって、よく判らない文章なんです。 もう少し、かみ砕いて頂けないかと思います。

さて、広島に帰ってくると、この耐えられない猛暑。 たかだか3日間ですが、札幌の環境に戻りたいです。

今日は朝から、3日間の仕事を取り戻すため、ちょっと頑張り過ぎました。若干バテ気味です。 今さらですが、歳を感じますね。

札幌の3日間も公務ではあったのですが、ある意味、「優秀な講師の追っかけ」で、東京講演の日程が合わず、札幌まで行かせて頂きました。

今回は、議員の政務活動費内で、自費の活動ではありませんから、改めてしっかりと市民の為に還元させて頂きます。

テーマは、「平成30年度介護保険制度改正の概要とポイントについて」です。 講師は、仙台大学の「千葉喜久也先生」。

ある程度の予備知識を持って参加するのですが、良い講師だと、その概念までひっくり返されてしまいます。

今回は60度くらいひっくり返されました。 何でもそうですが、理屈が勝ってはいけない。 現場での経験を、如何に言葉に出来るかが重要ですね。

欧米との医療介護の考え方の違いが、エキスだけは感じ取れました。

「欧米に寝たきり老人は居ない」。 これも事前に仕入れて参加したのですが、やはり、現地取材された方の言葉は重いですね。

「欧米の医者は、不要な延命処置はしない」とは聞いていましたが、終末ケア(ターミナルケア)のドライさは、日本の終末医療の半面教師でもあるし、過剰医療・過介助が、日本の医療介護予算のネックになっている事も再認識出来ました。

朝起きたら、必ずパジャマからお洒落な服に着替えて食事をし、朝日を浴びながら近くの公園に行き、いつものベンチに腰掛け、同世代のお友達とお喋りを楽しむ。 風邪なんかで病院に行くことはない。 熱が高くなるうちは元気な証拠。 最後の最後まで、自宅で寝起きして、いよいよ体力が落ち、食欲が無くなったら、週2~3回訪問するヘルパーさんからの連絡で、そのまま病院へ。 そして、ほとんどの人は約1週間で亡くなる。 どこの病院でも、食べたくない人に食事を与える事はしないから。 

お医者さんの単純な批判ではありませんが、日本の医療は、患者の気持ちより、患者の家族や病院の方ばかり見ているのではないかと思いますが・・・ 家族の感情から考えたら、今の日本ではまだ難しいかもしれません。

先日のダボス会議で、「100才の同窓会で70%の出席率」が可能な国として、日本が上げられたそうです。 同窓会に,寝たきりでは参加できませんからね。 頑張りましょう。

 

頑張りましょう” への2件のコメント

  1. ちょいとご無沙汰です. こなです.

    私も私用で,下の娘と二人で週末東京に行っておりました.いや,東京も暑かったです.「塩分チャージ」なるタブレットが非常に役立ちました.

    さて,とりあえず,私の中途半端な文章の追加説目をしておきますと,実に簡単なことです.

    「人の出生率などを表す専門用語として,「生産性」という言葉は普通に使われている」

    ということです.少なくとも英語では使われています.ただし,私の専門分野ではないので,この英語にどのような日本語があてがわれているかは知りません.

    いずれにせよ,杉田氏の「生産性」に飛びつくのは,あげ足取りの印象操作でしかありません.

  2. あと,ターミナルケアの問題ですが・・・.

    これも,専門家でもなんでもないのであまり偉そうなことは言えないのですが,こなも,若い時分に海外にいた時に,

    彼らの生死感のドライさに,なんとも言えない気持ちになりました.

    身内の死,近しい人の死に対しても,なんていうか,どこまでも明るい曲調しかないラテン音楽みたいな受け止め方しかないのです.

    で,最初はとことん,彼らの生死感ってあっけないなぁ・・・,というか,人生なるものの認識としてとことん軽いなぁって,ある種上から目線で考えていたのですが,それが,住んでいるうちに,感覚が少しづつ変わってきたのですよね.

    それで一つ発見したのは,これはやっぱり,「宗教的抱擁力」のおかげだということでした.

    それで,途中を端折りますが,そんなこんなで一時期,当地の絶対的な宗教であるカトリックのゆりかごの包容力にある種あこがれた私がいました.

    でも,結局,宗教なるものに帰依できない自分も同時に存在していました.一つは個人的な資質の問題でしょうが,もう一つは,いかにも戦後日本人的な,

    「国民共通の,宗教感の喪失」

    が自分の中にもあることに,気付いてしまったのでした.

    心身ともにボロボロになりながらも,老々介護で寝たきりの自分の親を最後まで看取ってゆく現代日本人の生きざま,そんな

    「何でも自分でカタを付けようとする日本人たち」

    を,

    「努力の人,潔き人生」と肯定的にとらえるのか,はたまた,
    「神にさえ近づこうとするおごり」ととらえるのか・・・,

    随分乱暴な言い方になりましたが,そういう疑問が私にはあります.

    以上,実家を捨て,親の面倒など全く顧みず,ついでに嫁の親ともまともに交流していない「ふとどき者のこなの,それでも正直な思いでした.